当時、在籍していたメーカーは『静かなるドン』『ミナミの帝王』などを発売し、出せば何でもヒットするような勢いで老舗の東映ビデオやその他のメーカーよりも量産していた。それらの多くを支えていた客層はミニシアターの映画を見るような客層とは真逆のブルーカラーの人々と専ら言われていた。そこで言われた一言「うちはスピリッツじゃねえ!」。当時は生意気だったのでわかってないなと聞く耳を持たず、相変わらず自分のやりたいことしか考えてなかった。しかし日本映画が質量共に充実していた50年代から60年代の映画ファンの多くも同じブルーカラーだったと今では思う。その中で黒澤、小津、溝口といった巨匠監督、三隅研次、増村保造、加藤泰といった商業の枠では収まらない作家性を併せ持った監督たちが作品を発表していたのだ。後年の我々はそれら一部の傑作を見ていたに過ぎない。
10年くらい続いたこのVシネバブル。昔、日活がロマンポルノで果たした役割と同様に現在でも活躍する監督たちを輩出した。黒沢清、三池崇史、廣木隆一監督らがそうだ。量が質を生むは嘘ではない。現在、量的には当時以上の活況を呈している日本映画界の未来は暗くないだろうと思う(今囁かれている自浄作用がきちんと働けばだが)。
映画の制作費はどうやって決まるのか。現在多く採用されている製作委員会方式のルールを作ったのはビデオ市場ではないかと思う。私がこの世界に入ったのは1989年だからそれ以前の状況は正確なことはわからないが、間違っても脚本から決まるなんてことはなかった。このことが日本映画を破壊したと当時Vシネマを映画じゃないと忌避した諸先輩方もいた。幸か不幸か、私のいたメーカーの経営陣には映画人と呼べる人間は誰もいなかった。だからできたのだろう。ビデオがどれだけ売れるかから逆算して制作費は決まっていた。劇場公開も配信も海外展開も基本念頭にない完全レンタルビデオ店のみに向けた商品、それがVシネマなのだった。何本かやっていくと自ずと制作費はどんな作品にしろ大体同じ額※1になっていく。会社で企画を通すための稟議書を作る作業も馬鹿馬鹿しいものだった。90年代後半になるとバブル崩壊の影響もあったのだろう、市場は先細りし、制作費もジワジワと下がっていった。そしてさらに低予算で作れるエロものが増えていく。まるで60年代の再来だ。TVの台頭で斜陽となっていった映画界と同様の現象が起きていく。私の大好きな増村保造監督の作品のフィルモグラフィを見ると一目瞭然。しかし監督はその中でも傑作を残してくれている。その中の一本が『盲獣』なのだ。
つづく
※1 基本の制作費は3,500万円。よくもわからず、何とかそれを4,000万円に近づけるのに必死だった。我々プロデューサーという名のメーカー担当者は会社と制作プロダクションとの間で板挟みになり、よく「お前はどっちの人間だ!?」と怒られていた。売る側と作る側の間のコミュニケーションが取れずにいい作品ができるものかと必死だった。後年、その額はじわじわと下がっていく。だからと言って、他社から出資を仰ぎリスク分担するようなことはなく、ほぼ自社で100%出資をしていたので会社で企画を通すことだけが成立の手段だった。