私がそのメーカーに在籍していた90年から94年の間にプロデューサーとして関わった作品は14本(名前が出てないものを入れるとその倍以上)。多くの制作会社から企画をもらい、こちらからも相談し仕事をご一緒した。私が担当していたのはエクセレントフィルム、光和インターナショナル、ツインズ、シネマハウト、バズカンパニーなどといった実際に作品を制作する製作会社・制作プロダクション※1である。それらの会社のプロデューサーの先輩方は映画が大好きな親切な方が多かった。映画監督ばかりに目が行きがちだがこれらプロデューサーの人たちの映画愛なくして成立する作品は一本もない。特にシネマハウトの佐々木啓さんとは一本しかご一緒できなかったが感謝してもしきれない。作品を作ることの喜びを教えてくれた恩人だと思っている。私が初めて自分で見つけてきた原作を映画化すること、そして完成後、原作のモデルとなった人から訴えられ映画を修正するに至るまで丁寧につきあってくれた。映画が好きなこと、自分がどういう映画を見たいと思っているか以外語る術がなかった私にその想いを監督やスタッフにどう伝えるか、それを体現する俳優を誰にするか、そのために予算はどう配分され、各パートで使っていくかを実践で学んでいけた。ゴラクの体裁をした自分の見たい限りなくミニシアターの映画に近づこうとした作品、それが清水一行氏の評伝小説「女帝 小説・尾上縫」を映画化した『女帝』(すずきじゅんいち監督)※2だった。企画の根底にはニキータ・ミハルコフ監督の『愛の奴隷』があった。しかし、予算のことを考えて映画を見たことのなかった映画青年は現実にできることとそうではないことを知る。やりたいことはわかってるのにできないというのは忸怩たる思いにさせられた。
つづく
※1 私はヤクザものを題材とした作品を多く担当していたため、多少予算が多かった。同僚たちの中には主にエロものを担当していた者もいて、制作費は安く叩かれ、その後倒産する制作会社も現れた。それを間近に見てきた同僚の苦しみは想像に難くなかった。その彼はその後もフリーランスのプロデューサーとして活躍しているが、決して自ら会社を立ち上げることはしていない。
※2 バブル期、銀行マンらを手玉に取った稀代の女相場師に材を採った女性版『ミナミの帝王』として企画を通し、実現。実際は好きな男性と自分のお金を目当てに群がってくる銀行マンらとの板挟みで壊れていく哀しい女性を描くメロドラマを企図した作品だった。