COLUMN コラム
2025.03.03
映画プロデューサーになるということ7

 97年、仕事が激減、自分で見つけてこなければならなくなる。早くレンタル市場中心のものから脱却、本当の意味で劇場公開で勝負する映画をやりたいという希望と合致し、悲観的になることはなかった。しかし、どれも実現することはなかった。※1まだまだ力不足を突きつけられる。

 この頃、WOWOWの仙頭武則プロデューサーが「J・MOVIE・WARS」なる連作プロジェクトで海外の映画祭を席巻、猛烈に嫉妬する映画作りをやっていた。特に諏訪敦彦監督の『M/OTHER』は驚かされた。私もマチュー・カソヴィッツ監督の『憎しみ』に触発され、松本大洋氏のコミック「青い春」の映画化を企画するも原作権の獲得には至らなかった。この作品こそ前の会社の上司にこっぴどく否定された「ビッグコミックスピリッツ」誌で発表されたものだった。

 会社は94年から99年にかけて『棒の哀しみ』『鬼火』とキネマ旬報ベストテンにランクインする傑作、『DEAD OR ALIVE』シリーズなど三池崇史監督が怪作・問題作を連発していた。特に『DEAD OR ALIVE』はVシネマ最大にして最終企画、当時Vシネマに関わっていた誰もが夢想した二大スター哀川翔・竹内力共演を実現した作品でこれ以上のVシネマはないと思った。正直、終わった、このマーケットは長くない。早く劇場映画にシフトしなければ、そういう思いは焦りへと加速していく。今、自分にできることは何か? このジャンルでもミニシアターでかけられる映画を作るしかない。ヤクザものでも自分なりのアプローチをすることで突破したいと考えた。

 98年、椎名桔平主演で『なで肩の狐』※2(渡辺武監督)と哀川翔主演『dead BEAT』(安藤尋監督)の二本を制作する。一応、劇場公開作である。どちらも元ヤクザの男がこの世界から抜け出そうとしてままならない人生を描くものだった。制作費も4,000万円前後までアップしたが、『なで肩の狐』は結局自分では出資を集められず、会社の力を借り成立、『dead BEAT』は脚本をダメ出しされ、混乱を極めながら制作に突入。プロデューサーと名乗りながら自分で作品をコントロールできず、後悔の残る作品となった。止めは『なで肩』の配給時に起こる。大阪の劇場公開時、レンタルビデオ店に出廻っているというありえない事態となり、支配人に大変な迷惑をかけてしまう。

「仁義も何もないじゃないか! そんなひどいことをするのか?」

返す言葉がなかった。言い出せないままここまで来てしまっていた。大阪に来て劇場のすぐそばにビデオ店があり、絶句してしまう。それもこれも自分で出資者を見つけられず直接交渉ができる立場になかったからだ。こんなことをしていてはダメだと大きな挫折を味わう。

 その渦中の99年4月、会社から解雇され、フリーランスになることを余儀なくされる。

つづく

※1 清水義範「バスが来ない」、天藤真「善人たちの夜」、町田康「くっすん大黒」などの小説の映画化を企画するも実現に至らず。ビデオマーケットとの隔たりが大きすぎた。

※2 もともとこの続編にあたる花村萬月氏の「狼の領分」を映画化したいと思っていたが、会社にこの作品の提案が来て、担当となる。主演を『パチスロ闇の帝王4』『女帝』に出てもらった椎名氏にオファー。当時はおこがましくも自分の分身のように思っていた。椎名氏は『湾岸バッドボーイブルー』が鮮烈な印象として残っており、『ヌードの夜』以降あっという間に人気者になっていった。その『湾岸バッドボーイブルー』の宣伝をやっていたのが持永昌也氏である。その時の情熱はすごかった。彼の自分が認めた作品や監督・俳優への熱量は見習うものがあった。

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