90年代の日本映画は黒澤明、大島渚、今村昌平監督ら巨匠たちが作品を発表し、その一方で北野武監督をはじめ異業種監督の台頭、中堅の相米慎二、森田芳光監督ら80年代を代表する監督たちも依然気を吐いているような状況で、興行史的には80年代と00年代の狭間の底冷えの時期と同時に多彩な作品が発表された10年と言える。そんな中、私が主戦場としていたVシネマ市場はジワジワと押し寄せる凋落の季節が迫っていた。95年、96年にかけてプロデュースした作品は13本。それ以外にも名前を出していない担当した作品は相変わらず多かった(それが97年になると2本、98年も2本に激減する)。
毎日、何組かが撮影をしており、編集ラッシュやダビング・初号試写と立て続けにあった。自社のプロダクションだけでは追いつかず、他の協力を仰がないと回らない状況。私は主にそういう他社提携作品の担当が多く、会社も自由にやらせてくれていた。私のやっている作品(大概制作費も1,000万円台と通常の1/3くらいの予算)を上層部がチェックするほど暇ではなかった。会社は元日活の監督でプロデューサーの伊藤秀裕氏を中心に日活出身の先輩たち、三池崇史監督の仲間たちなどでごった返しており、とにかく騒々しくも楽しかった。
95年入社したものの現場経験のない私は制作プロデューサーの即戦力ではなかった。そのため先輩方はどう扱っていいのか困っていたと思う。何せそれまではスポンサーサイドの人間なのでアシスタントでこき使うのも躊躇われただろう。また彼らとしても私が与えられていた低予算の仕事はお断りだった。しかし、その頃の私は圧倒的に監督や脚本家の情報量が少なく、現場経験もないので同世代のこれから監督になろうとしている助監督も知らなかった。私が見ていた映画はミニシアターの洋画が多く、それもここでは何の役にも立たない。かろうじて見ていたアルゴプロジェクト※1の監督たちとは一緒に仕事するというのは現実味に乏しい気がしていた。自分の見たい、作りたい映画はあってもそれを一緒に目指す監督や仲間たちがいなかったのだ。当たり前だが映画は一人では作れない。
つづく
※1 89年、気鋭の独立系プロデューサー6人により始まった製作から配給・興行までプロデューサーの手で行おうとするプロジェクト。『桜の園』『12人の優しい日本人』『死んでもいい』など90年代を代表する作品を次々発表。上京前後の私には日本映画の希望の光に見え、特にそのメンバーのメリエスが制作する作品に憧れていた。