COLUMN コラム
2025.02.08
映画プロデューサーになるということ 6

 95、96年頃はスポンサーは決まっており、資金調達をする必要はなかった。企画内容についてもジャンルや予算はほぼ決まっており、内容だけを吟味すれば良かった。場合によっては監督や主演の指定があったりもした。そういうものをこなしながら、自分の企画を実現する機会を窺っていたのだ。そんな中で自分のやりたいことを一緒に実現できる監督との出会いができたのは幸運だった。その出会いを作ってくれたのは今は亡き映画ライターの持永昌也氏である。業界では悪名高いが私にはとてもいい先輩だった(前の会社の同僚だが年齢的には先輩である)。人に悪態をついてその人との距離感を探るような人で、今考えるとその生き方には痛々しいものを感じる。彼からサトウトシキ、安藤尋、佐藤佐吉氏らを紹介してもらった。95年、サトウトシキ氏と『LUNATIC』、96年に安藤尋氏と『pierce LOVE&HATE』を作った。どちらも会社からあてがわれた企画だったが監督の人選は任され、より自分のやりたい映画の方向性、方法論を『女帝』から一歩先に進めることができたと思えた作品である。    

   

 サトウ氏は当時ピンク四天王の一人として海外でも注目されていたピンク映画監督、安藤氏は廣木隆一監督に師事し、93年にピンク映画でデビューしたばかりの監督で「石井隆の再来」とある映評で書いてあるのを見て興味を持った。『LUNATIC』は会社が提携していた映画専門学校の卒業制作と元少女隊の安原麗子さんの『ベテイ・ブルー』みたいなのをやりたいというところからスタート、『pierce』はピアッシング※1を題材にしたものをやれと言われたことから始まっている。この企画は脚本家が本調有香さんと決まっていた。彼女は神代辰巳監督のスクリプターから脚本家に転身、監督の遺作『インモラル 淫らな関係』も手掛けていた。共に制作費は1,000万円台である。この二作はシネカノンの李鳳宇氏が興味を持ってくれ、『LUNATIC』は96年「シネ・アミューズ」※2でレイトショー公開される。(『pierce』は出資者と折り合いがつかず、劇場公開は2003年までお預けとなる)。ついにミニシアターでの上映が叶った。                                               

                                                 

 この頃の私のプロデューサーとしての仕事は主に脚本開発とキャスティングでこの二本の制作は現場をフィルムクラフトの佐藤靖氏、仕上げを金子尚樹氏に助けてもらった。『LUNATIC』はやったことなかったものの興味本位で配給にも手をつけてみた。日本映画のポスターやチラシのデザインが当時重要視されていないのが邦画と揶揄され、若い世代に敬遠されている原因だと考えていたので配給のことも早く身につけたかった。結果は散々だったが、とにかく素人でも手を挙げてやってみること、免許のいらないプロデューサーの仕事はこれに尽きると思う。                        

つづく

                                                                                                     

                        

※1 当時、村上龍氏の「ピアッシング」という小説が話題になっていて、あちらこちらで似たような企画が作られていた。

※2 渋谷・道玄坂に2009年まであったミニシアター。03年には『blue』もかけてもらった思い出深い映画館で何度も足を運ばせてもらいました。感謝。

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