COLUMN コラム
2024.09.02
映画プロデューサーになるということ1

 

 1990年代、同じ会社に在籍していた、今では有名な映画監督となった先輩が監督は40歳までが勝負で、その後はそれまで身につけたことを手を替え品を替え、再生産するだけと話をしていた。(私自身は監督ではないが)そのことがずっと自分の頭の中にあった。その年齢を目前に控えた2004年、30年以上の映画プロデューサー人生の中で後にも先にも最も自分の感性をフル開放して作った映画『乱歩地獄』に着手した。                                           

                                                 

 念願の江戸川乱歩ものだった。昔見て衝撃を受けた『盲獣』の増村保造監督も実現を切望したという「芋虫」。これは少し前に佐藤寿保監督※1から提案を受けていた。そして『盲獣』同様、低予算でもこんな映画が作れるのか、作っていいのかと考えさせられた実相寺昭雄監督の『D坂の殺人事件』の脚本を手掛けた薩川昭夫氏※2から「鏡地獄」の大胆な翻案企画を同じ頃もらっていた。単独でそれぞれ実現することに難しさを感じていた私は自分を育ててくれたミニシアターとそこでかかっていた映画、その中で学んだことの全てを投入するつもりで総花的なサブカルチャーの祭典にうって出る。乱歩作品の中で最も好きな「蟲」と掌編「火星の運河」を加え、一本の映画とする企画『乱歩地獄』を立ち上げる。遡ること三年前に企画制作した『殺し屋1』『青い春』『blue』で業界的にも評価され、自分なりにも期が熟した、と思っていた。                                     

                                                 

 自分の見たい映画を自分の手で作りたい、そして自分には作れるという若さゆえの過信から大学卒業後単身上京し、15年が経っていた(なぜか映画監督になりたいと思ったことはなかった。無鉄砲さと同時に自分を見つめる冷静さは持っていたのかも知れない)。                            

                                                

 映画を作るにはどうすればいいのか、どうやったら映画プロデューサーになれるのか体系的に学ぶ術が当時他にあったのかはわからない。今だったらネットで検索したりして調べられるだろうし、手っ取り早く作ることだってできるかもしれない。しかし唯一の手段と思って入学した専門学校を夏休みが来る前にドロップアウトした私は何とかこの世界に入る※3ことができ、当時盛り上がりを見せ始めていたレンタルビデオ店向けオリジナル作品(通称Vシネマ)を企画製作するメーカーで宣伝や制作に従事した後、93年からはプロデューサーを名乗り出し、見様見真似でここまでやってきていた。当時そこで上司に言われた一言は今でも忘れられない。

「うちの客はゴラク※4(を読む連中)なんだ! スピリッツじゃねえ!!」                     

                                                 

                                       つづく

                                                 


※1 瀬々敬久監督らと共にピンク四天王として海外の映画祭でも注目を集めた鬼才。95年から96年にかけて監督が手がけたVシネマ『夢で逢いましょう』(山本直樹原作)『女虐 NAKED BLOOD』(ピンク映画のセルフリメイク)『人体模型の夜』(中島らも原作)にプロデュース参加。その次にやろうとしていた企画が頓挫、電話で罵り合って別れ、数年後連絡をもらえたのは嬉しかった。

※2 「新世紀エヴァンゲリオン」『屋根裏の散歩者』(実相寺昭雄監督)などを手掛けた脚本家。当時、山本直樹原作の「ビリーバーズ」(未完)の映画企画でその企画者である守屋健太郎監督の紹介で出会い、企画提案を受ける。本作完成後、彼の手がけた作品を見られないのは残念。

※3 89年末、「宇宙戦艦ヤマト」で知られる西崎義展氏主宰の会社に入社。その一年後、主にレンタルビデオ店向けオリジナル作品を発売するビデオメーカーへ転職。共にアルバイト雑誌の募集広告で入社。このビデオメーカーに入社当日出社するとその場所はもぬけのからだった。何が起きているのかわからずとりあえず電話してみると引越したと言う。大慌てで教えてもらった住所に行って事なきを得た。電話しなかったらどうなっていたんだろう?

※4 日本文芸社が発行する漫画雑誌「週刊漫画ゴラク」。『ミナミの帝王』のヒットにより、当時連載していた漫画の映像化がこぞって進められた。同じく映像化の多かった実業之日本社の「週刊漫画サンデー」などの総称として使われていたように思う。私の好きな「ビッグコミックスピリッツ」は上層部には受けが悪かった。                                                

                                                                   

※  1989年からこの世界で働く一インデイペンデントプロデューサーが現在まで30有余年見聞きし、体験してきた映画界漂流記です。多分に主観が混ざっていますが、現場の生の声とご理解ください。もし、客観的事実で間違いがあればご指摘願います。

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